二宮尊徳生家と尊徳記念館

名所旧跡

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二宮尊徳(金次郎)は、天明7年(1787)7月23日、父利右衛門と母よしの間に生まれました。二宮家はもともとかなりの地主でしたが利右衛門は病弱であったため、金次郎は父に代わって夜はわらじ作り、昼は農業のほか、酒匂川の治水工事にも参加しました。

しかし、度重なる洪水と相次ぐ父母の死により、一家は離れ離れになり、金次郎は16歳から18歳までを伯父の万兵衛の所で過ごしました。万兵衛は、夜遅く 本を読んでいるのを油がもったいないと叱り、早く寝るようにしつけました。しかし、それでも金次郎は勉学にはげみ、それによって得た知識から、 より理想的な生活の仕方を考え、徹底した無駄のない生活の方法を考えました。19歳のとき独立し、自分の田を開墾すると同時に武家に奉公しながら 田畑を買い戻して23歳頃には、一町歩(約1へクタール)の地主にもどりました。

文政4年(1821)に小田原藩家老服部十郎兵衛の家計を立直 したのをきっかけに文政5年(1822)には、小田原藩の分家、栃木県桜町領の宇津家の復興を大久保忠真公の命により着手しました。尊徳は家や財産を売り払い、桜町に移住しました。復興には多くの苦難がありましたが、10年で立て直しをなしとげ、大久保公より賛辞を受けました。

その後、嘉永6年(1853)に日光神領の復興を幕府から命じられました。しかし、幕府からの事業資金はなく、 1万両余の資金を自ら調達し、事業を開始しました。尊徳は、病身を押して管内の89か村を巡回し、用水堀を作り、荒れ地を開墾して着々と成果を上げたが4 年目にしてついに病に倒れ、安政3年(1856)、69歳の人生を閉じました。

封建社会の中で、農民を救う道として独特の「仕法」を生み出した尊徳の教え は、各地に報徳の教えとして今も生き続けています。

尊徳の生家は、小田原市栢山の尊徳記念館に隣接する尊徳誕生地に復元されており、付近には、伯父万兵衛宅、捨苗栽培地跡、油菜栽培地跡、坂口堤、報徳堀、善栄寺墓所などの遺跡があります。

小田急栢山駅から徒歩15分、年末年始休、大人200円、小・中学生100円

  • 市町村: 小田原市